日本はなぜグローバリゼーションへの転換に対応できなかったのか

日本の「失われた30年」、その背景にある最も大きな構造変化は、1989年のベルリンの壁崩壊を契機とするグローバリゼーションへのパラダイム転換だったと思う。

東西冷戦下では、資本主義・民主主義諸国の中で自由貿易を行う西側先進国の一員として、日本は輸出主導型の製造業を強みに、高品質な製品を大量に生産し、世界市場で圧倒的な競争力を築いた。自動車、家電、半導体、素材などの分野で世界をリードし、「日本株式会社」と呼ばれる成功モデルを確立した。

しかし、東西冷戦の終結後、世界は「人・モノ・資本・情報」が国境を越えて自由に移動するグローバリゼーションの時代へと移行した。この新しいルールの下では、資本や技術を持たなかった途上国、とりわけ中国や韓国、ASEANなどの新興国が、先進国の技術や投資を取り込みながら急速にキャッチアップできるようになった。

グローバリゼーションの下での、製品輸出競争は労賃や土地代などのコスト競争力で勝る新興国が有利になる。このため、先進国は東西冷戦下とは異なる生き残り戦略を築く必要があった。

実際米国は、新興国の弱い金融・IT分野に特化した。ウォール街を中心とする金融資本市場、そしてシリコンバレーを中心とするIT産業が世界経済の新たな覇権を握り、GAFAに代表される巨大プラットフォーム企業が誕生した。

EUは、欧州は、EUという巨大な単一市場を形成し、域内市場を拡大すると同時に、環境規制や製品規格、個人情報保護などの制度設計を通じて、世界のルール形成を主導した。

一方、日本は結果的にほぼ丸腰で、正面からまともに新興国とぶつかった。その結果、徐々に日本の製造業は弱体していった。こういう見立てだ。

理由1ー日本の国民性

これに対し、日本は世界のルール変更に対する独自のゲームプランを示すことができなかった。

日本は、既存のルールの中で品質や生産性を高め、徹底的に競争することには非常に優れている。しかし、自ら新しいルールを提案し、世界標準を設計することや、自国に有利な制度や市場を構築することは必ずしも得意ではなかった。

これは日本企業だけではなく、日本社会全体の特徴でもある。与えられた条件の中で改善を積み重ねる「最適化」は得意である一方、ルールそのものを変える発想や制度設計、標準化戦略、プラットフォーム戦略は相対的に弱かった。

理由2ー攻めには強いは守りには弱い

さらに、日本は「攻め」の戦略には長けていたが、「守り」の戦略を十分に構築できなかった。世界市場が拡大する局面では、輸出競争力を武器に成長できた。しかし、市場が開放され、日本の優位性が相対的に低下する局面において、自国の強みを維持・再構築する制度設計や産業政策は十分ではなかった。

守りは農業に力点

理由3-世代の特徴

この背景には、世代構造の変化も少なからず影響した可能性がある。

戦中世代は戦争という国家存亡の危機を経験し、その後の復興を担った。団塊世代は高度経済成長と学生運動という大きな社会変動の中で育ち、既存の価値観を問い直す経験を共有した。

一方、その後の世代は、戦後の安定した国際秩序の中で成長した。生まれた時からブレトンウッズ体制による自由貿易と経済成長が当たり前となり、大きな体制転換を経験する機会は少なかった。そのため、世界秩序そのものが変わるという発想や、既存の成功モデルを根本から見直す切迫感は、前の世代ほど共有されなかった可能性がある。

もちろん、これは世代全体を一括りに評価するものではない。しかし、社会全体として現状維持バイアスが強まり、「これまでの成功モデルを改善し続ければ将来も競争できる」という認識が広く共有されていたことは否定できないだろう。

結果として、日本はベルリンの壁崩壊後の世界秩序の転換を十分に認識できず、グローバリゼーションという新しいゲームのルールに合わせた国家戦略を構築することができなかった。

失われた30年とは、日本企業や日本人の能力が低下した30年ではない。世界のゲームルールが大きく変化したにもかかわらず、その変化に対応する新しい戦略を国家として提示できなかった30年だった、と捉えることもできる。そして現在、ポスト・グローバリゼーションという次のパラダイム転換を迎える中で、同じ過ちを繰り返さないためには、既存ルールへの適応だけではなく、日本自らが新しいルールや市場、国際標準を構想し、形成していく力がこれまで以上に求められている。