途上国の昭和の風景と現在の日本

私は仕事でアジアの途上国をよく訪れる。先日はフィリピンに行ったのだが、そこで目にした街の風景は、私に昭和四十年代の日本を思い出させた。

強い日差しが路地を照らし、その道では年齢の違う子どもたちがシャツ姿で遊んでいる。近くでは犬が走り回り、その鳴き声が響いている。そこには、かつて日本にも確かに存在した原風景がある。その光景を見るたびに、懐かしい気持ちになる。

一方、日本へ帰国すると、まったく違う風景が広がる。子どもの姿は少なく、犬の鳴き声もほとんど聞こえない。街並みは美しく、道路も整然としている。しかし、道を歩く人は少なく、その多くは高齢者である。日本で暮らしていると当たり前の風景であるが、世界のさまざまな国を訪れた後に帰ってくると、それが実はとても異様な風景であることに気づかされる。

同時に、自分が長い年月を生きてきたことも実感する。ここまで元気に生きてこられたことは幸せである。親族や友人の多くも今なお元気に暮らしており、それもまた素直に嬉しいことである。

しかし、このようなミクロな幸福感とは対照的に、マクロで見れば別の問題があるように思う。高齢者がいつまでも元気で、現役として社会の中心的なポジションにとどまり続ける一方、人口構成比の小さくなった若い世代の影響力は相対的に弱くなる。その結果、新陳代謝が進まず、新しい発想や価値観が社会に浸透しにくくなる。

そう考えると、私は現代の若い世代に対して、どこか後ろめたさや申し訳なさを感じる。私たち高齢者が元気であり、社会の第一線に長くとどまることで、若い世代の活躍の場や意思決定の機会を狭めている面があることは否定できない。

日本の経済や社会の仕組みは、昭和の成功体験を色濃く残したまま、大きく変わることができなかったのではないか。もちろん、失われた三十年にはさまざまな要因があるが、世代交代の緩慢さも、その一つではないかと思う。

アジアの途上国で昭和の日本を思わせる風景に出会うたびに、懐かしさと安堵を覚える一方で、日本社会の時間がどこか止まったままであるような感覚も抱く。その相反する思いが重なり、私はいつも少し切ない気持ちになる。